自分史:今日の自分を書こう。

新しい自分の発見の旅に出ています。

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ネットがつながらくなって感じたこと。ネットには依存していないけれど、このネットで知り合えたあなたは、私の心を受け入れていただいた心友であると。

 正月そうそうパソコンがよくフリーズする。中々立ち上がらない。ネットに繋がらない。そんなこんなでブログが書けない。そこでまず私が考えるのは「ああ、ついにパソコンが壊れたのか。買い換えるのに費用がかかるなあ。面倒だなあ。」と。即、壊れたと。しかし、ある部類の人はそうでもないらしい。「何も悪い事をしていないのに、急に壊れる理由がない。動かないのにはそれなりの理由があるはずだ。」と。私が務めている施設には多くの設備員がおられます。いろんな機材の修理のプロなので、その人たちと隣り合わせの場所に居合わせていると、そんな意見が飛び交っているのを聞いているお陰か、事があっても、「そんなはずは無い。」という発想が私の中に最近よく沸き起こってくる。冷静な判断である。ちょっとこういう人たちに憧れる。理工系の発想だろう。
 今回も「そんなはずはない。」と、コンセントから一旦電源を抜いてみた。誰もする行動だろうが。すると、こんどはネットに接続されていませんと画面に出てきた。なんで?抜いたことで壊れたのかとまた、短絡的に発想になったが、そんなはずは無いと、もう一度点検してみた。すると、線を辿っていくと、コードが抜けていた。先ほど、コンセントを抜いた際にルーターが何かにひっかかったのだろう。そして、接続するが中々繋がらなかったがしばらくすると、繋がった。「ああ、よかった。買い換えなくて。」ただ、コードが抜けていただけで、すぐ原因は判明したが、私がいいたいのは、「そんなはずは無い。」と、冷静に振り返る行動である。私の中に欠けている部分なのなので、設備員さんと仲良くなると、その発想にいつの間にか刺激されていたのだなあと感じた。
 また、同時に今回、パソコンが使えなくなった瞬間にいろんな事を感じた。多くの仲間のブログを読むことができなくなったなあ。突然だから、びっくりしているだろうなあ。という申し訳ないという思いがあった。それはさておき、パソコンがなくても、生活はできるなあと思った自分が嬉しかった。依存していないのだ。あってよし、なくてよし。どんなの状況でも安堵感を感じることがちょっとは出来ているなあと思ったのである。
確かにネットはいろんな知らない情報を提供してくれる。しかし、それは本当に自分に必要な情報だろうか。そんなことも考えさせられた。いろんな知識を得るという面では確かに必要であろうが、その膨大な知識よりももっと大切なものがネットの他にあるような気にもなったのだ。知恵に似た感じのものである。もちろんそれは自分が日々人間関係の中でどうしたら、もっと潤滑にいけるかの難題の解決にはネットは本当に必要なのだろうかと。
また、その延長で私にとってネットとは何なのだろうかと考えた。日々の考えをつぶやいているだけなのだろうか。それでも確かに十分な意味はある。それは世界の隅々まで私の考えが広がっていくのだから。賛成も反対もあるし、同意見や異論もあろう。ある意味、私にとってネットとは「私の心」そのものなのだろうと。顔が見えないという面では、このネットをあなたの隣の人や同僚かもしれないということ。この間、ネットにコメントを大分前から時々返信してくれていたのですが、私の知人だったということに全く気が付いていなかったのです。ネットこういうものなんですね。ちょっと面白く感じました。
 パソコンがたわいの無い原因で復活しましたが、この2、3日の休止で、気付かなかったいろんな事を体感しました。また、ボチボチやっていきたいと思います。返信やみなさんのコメントが見られなくて、寂しかったし申し訳ありませんでした。復活です。しかし、また、諸事情から突然止るかもしれません。パソコンを通してですから、それは仕方ないと思います。同じ人と交流し続けていると、その息吹か感じられる心の友となりつつあるのもものすごく嬉しいことです。読んで共感していただいたあなたは親友ではなく、心友です。
「資格に向けて この間は時間がなくてできなかった。」

「致知」11月号より。
「我々日本人は獲物を狙う狩猟民族ではなく、農耕民族である。ゆえに、自分から条件のよい仕事を狙って移っていくよりも、次の仕事が迎えに来ることが望ましいように思う。目の前にある仕事から逃げることなく、とにかく完結させる。そうすると、次の仕事が迎えに来る。仕事がその人を選んでくれるのである。これこそが真のキャリアアップであろう。」(アイスブレイク社長 中村 信仁氏の言葉)

「他の人と同じだったら、一般の人は感動してくれません。『あっ、すごいね。』というのがないと。そのためにはやはり毎日毎日努力する。」(元NHKアナウンサー 熊野神社宮司 宮田 修氏の言葉)
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[ 2016/01/07 16:49 ] 未分類 | TB(0) | CM(6)

心新たに再確認。日々のルーティーンの意識。意識していることを確実に認識する。小さなことですが、これが大きな志に繋がると思う。

 明けましておめでとうございます。正月という季節感も段々薄らいできたように思います。何故そう感じるのか。年末年始にかけての風物詩が年々行われることがなくなってきたからではないかと思う。50年前は大掃除、餅つき、親戚が一同に集まり、近所の人や日頃お世話になっている人の家に年始の挨拶にいったり、そこでは御節料理を囲んで酒を朝から飲んでいたり、居間や茶の間に笑い声が響いていたように思う。休日も今よりも少なかったから、盆正月休みは、誰もが楽しみにしていた。そして、仕事は一斉に休みだったから、町は静かだった。それが、生活が一変していった。どことも正月から店が開いていて、イベントで集客をしようとしているが、サービス業が増えてきたので、正月から出勤というところが物凄く増えてきたように思う。サービス業だけでなく、製造業でさえ正月出勤のところがあるようにも聞く。そうなると、正月休みどころではない。正月準備どころではない。年賀状さえ書く時間がないという生活スタイルが大きく正月の風情を変えていったのだ。これは社会の変化であるので、私は、良いとか悪いともいわない。大事なのは気持ちの切り替えかなあと思う。新年に向けて、心新たに志を立てる。このことが一番大事だと思う。
 私の志は年末にブログで書いた。それを書いた瞬間に感じたことは、今の方向は間違いないと思ったし、悩んだり、つまづいたりしていることが、物凄くちっぽけな事だなあと思った。こんなことで苦しいとか面倒だなあと思っていたら大きな志は遂げられるはずがない。その志は勇気をくれたように思う。人間というものをもっと見つめよう。その中でどうすれば、立派な人になれるのか。決して地位や名誉ではなく、人として立派になりたいと。結果、毎日同じことをどれだけ繰り返すことができるのかということではないかと思った。ルーティーン。方向が正しいなら、それを繰り返すだけと。どんな時もどんな場所でもどんな人にも謙虚であること。それを死ぬまで続けていく事だと。その先にどんな縁があるかはわからないが、その縁を大事に有難く必然として素直に受け入れていくだけだと。病気になろうと、事故に遭おうと、非難されようと。その苦しさに耐えることこそ自分が輝いていくのだと。
 日本に生まれてよかった。軍事紛争や飢餓がないというのではない。四季折々の風景が、希望を信じさせてくれるのではないか。そんな希望を感じられる環境なのではないかと。来る日も、来る日も雨が降らない国もある。そんな国で暮らしていたら、人はどんな考えを持つようになるだろうか。冬の後には春が来る。そう信じているから、人は冬の寒さに耐えられるのではないだろうか。逆もまたしかりである。穏やかな常夏、常春の地域も世界中にはある。そこでは人は穏やかで果物もいつも実り、食べ物に苦労しないであろう。しかし、そこに知恵が生まれるだろうか。逆境に強くなれるだろうか。耐えることから、多くの事を学び、耐えたことの褒美をもらえる自然環境に日本はあるのだと思う。日本人の国民性はその土壌で培われたのではないか。厳しすぎる環境が人を極端にしていくのだろう。砂漠の民もそうだし、紛争を起こしている国は環境がどこか極端に偏っているように思う。それはいいこととか悪いことではない。それが存在しているということを全世界の人は共有の認識をしないといけない。持てる国と持てない国。そこには当然、嫉妬や羨望が生まれるのだ。誰も豊かになりたい。しかし、努力だけはなれないものもある。
 自然環境は最初からあるものだが、環境としてもう一つある。人工的な環境である。法律がその最たるものだろうと思う。一見、法律は私達を守っているように見えるが、法律が足かせになり、真面目に生きても理不尽な仕打ちを受ける人や、法律の抜け道を見つけて要領よく生きている人がいる。法律は必要であるが、その規制があるあまり、その抜け道を見つけて、犯罪が起きる。しかし、日本は罪刑法定主義であるので、法律がなければ犯罪はなく、法律がなければ刑罰がない。いかに社会的、道徳的に非難されるべき行為であっても法律がないと犯罪にならないのだ。京都府亀岡市の登校中の小学生の列に無免許で衝突しても罪が、常識的に考えても軽いということもある。また、いろんな組織ができて天下りも起きるだろう。そこに税金の無駄遣いもあるだろう。法律が出来すぎるのは基本、道徳の欠如である。
 道徳教育に関しては思想教育いう人もいるだろう。これだけ殺人事件が毎日のように起き、詐欺や偽装が横行している現代社会には絶対に必要である。ある人は右に偏るのではないかと言っているが、今はあまりにも乱れすぎている。一度、この乱れ過ぎた世を道徳教育で、ちょっとでいいから、正していく必要がある。これもあまりにも行き過ぎるとまた緩めてもいいかなあと思う。ほどほどがいいのである。過度がよくない。社会のバランスである。ここで必要となるのが、やはり謙虚な姿勢である。相手の事をしっかり聞く。
 環境が人間を創る。そうならば、いい環境を作ること。それは決して法律を整えることをではなく、自分の心を見つめることから始めよう。小さなチャレンジではあるが、小さき日々のルーティーンを確実にこなしていこうと思う。
「資格に向けて 問題集を100問までしました。久しぶりで結構忘れていました。まだまだ落とし込んでいないなあと。」

「致知」11月号より。
「誰でもいい。『誰かに褒められたい。』これがないと、いざという時に踏ん張りが聞かないように思う。」「他の社員が『どうせ昼間に家に電話を掛けても出ないし。』と投げやりになっているところ、そういう状況の中でどうやったら売れるだろうかと、朝から晩まで必死に考え続けたのだ。」(アイスブレイク社長 中村 信仁氏の言葉)
[ 2016/01/04 17:25 ] 未分類 | TB(0) | CM(4)

どんどん自分の目標が高くなっていく。イスラム国の問題を解決したいと。それは全て哲学であるように思う。小さな窓から闇を見つめて来年も平和な未来にどうしたらなることができるのだろうと、5回転アクセルを跳ぶ気持ちで臨みたい。

 もし、今まで話したことのない言語の国で暮らすことになったとしたら、まずどの言葉を覚えることが大事だと思いますか。まず、思い浮かぶのが「ありがとう」だと思う。その次が「すみません」そして、「お願いします。」ではないだろうかと。 この間、警備の研修があり、そこで仕事の姿勢についての話の中でのこの3つの言葉を教えてもらった。そうだなあ。この3つの言葉さえあれば、世界のどこでも暮らしていけるような気がしたのである。もちろん、日本でもこれは同じ。そして、これは人間関係をスムーズにするために大事な言葉でもあると。英語は学校で学ぶので何とか英語圏では暮らしていけるだろう。しかし、フランス語圏、ドイツ語圏、中国語圏、ロシア語圏となると、言葉が通じないからと思っていたが、この3つの言葉を知ってさえいれば、なんとかなるなあと。
 この3つの言葉に共通することは「謙虚」ではないかと思う。謙虚というと自己主張や個人主義の強い西洋諸国では通用しないように感じるが、その人を立てるということと自己主張や個人主義とは全く違うことである。自分のことではなく、他人に対してどうあるべきか。その意識は言葉となるのだが、どんな時でも相手から学ぼうとする意識、そこに感謝する気持ちを持ち続けることが、人間関係が潤滑であることにものすごく大切になってくる。
 潤滑であることは自分の周りがみんな幸せであり、感謝され、感謝するという世界で満ち溢れているということである。どれだけ今日この言葉を使っただろうか。どれだけ周りから言われただろうか。
 とにかく、謙る。周りは自分より凄い人ばかり。教えてもらうことだらけ。子どもからも、隣近所からも。上司からはもちろん、後輩からも部下からも。実るほど頭を垂れる稲穂かな。ギスギスしているのは謙虚さがないから。愚痴を言う前に、せめて、自分の態度だけでも見直してみようか。
 そして、謙虚さとは突き詰めたら、聞くこと。よく聴くこと。まして、相手が話しているのに、終わらない内に自分の発言を被せないこと。相手の目を見ること。謙虚さとはそんな静寂さの中にあるもののように思う。心は環境で育てられるなら、静かな場所に身をおくこと。喧しいなら、深呼吸をして、目を瞑ること。寺の庭を見つめ、塵一つない磨ききった廊下を歩いていると、心も洗われてくる。謙虚の具象。自分が素直になれる場所。誰と戦うのではなく、自分に素直に向き合える場所。
 自分が成長するとか、幸せになれるというのは、全て、最初に哲学ありきなのだと思う。自分の思想を持つことなのだと思う。それさえ手にいれたなら、別の言い方をすればブレないものを持っていることが幸せなことなのだと思う。
 人間の歴史は宗教の歴史だと言える。独裁者もいたし、聖職者もいたし、いろんな主義を唱えてきた学者も多くいた。それが時代の潮流となり、カリスマとなり歴史を動かしてきた。もしかして、誰も幸せな社会を築こうとしていたのかもしれない。ただ、結果、思考に謙虚とは程遠い利己への偏りが極端であることに気付かない者が滅んでいったという結果ではあっただろうが。その試行錯誤の連続である。人類は果てしないこの道を歩いているように思う。そして、私も多分ブレないものを求めて永遠に歩いていくだろうと思う。 夜の警備室で読売新聞のコラム「編集手帳」を読んでいた。12月29日付け。
「(前略)きのうで仕事納めとはいかず、きょうも明日も出勤の予定という人は多いはずである。営業職に限るまい。旅館に行けば仲居さんや板前さんがいる。タクシーに乗れば運転手さんがいる。誰かがゆっくり骨休めをするときには必ずどこかで、代わりに誰かが忙しくしてくれている。好きな五行歌がある。〈今日の仕事は しんどい 頬っぺた ひとつたたいて 家を出る〉(松本孝博)。明け切らぬ朝の寒気に頬を打ち鳴らし、もう家を出た人もあろう。」
 なんだろう。このコラムを読んで、ものすごく胸が熱くなった。自分ひとりで生きているのではない。自分を多くの人が支えてくれている。そして、自分も誰かを支えている。そして、社会は成り立っている。それを知って生活することだけでも謙虚になれるように思う。
 話はまたまた飛躍する。冬のスポーツとして、この年末にフィギュアスケートが、連日、テレビに映し出されていた。「羽生選手」。300点超えをしたあたりから、向かうところ敵なしという雰囲気を醸し出していた。もう敵は自分しかいない。羽生選手を超える者は羽生選手しかないと。今、未知の世界を彼は歩き出した。世界で誰もやったことのない4回転ループに挑んでいるのだ。私にはどれがループで、どれがサルコウなのか速すぎてわからないので、どれだけ凄いのかはよくわからないが、とにかく誰もどうしたらその技を身に付けられるかがわからないのだ。筋力もあろう、跳ぶ角度もあろう、スピードもタイミングもあろう。今までにない何かを身につけないとそのレベルには達成できないのだ。一度、誰かが身につけたら後はそれが当たり前になっている。体操のウルトラCもいまやウルトラHくらいまで達しているらしい。身近なところでいくと、縄跳び。二重跳びは小学生でもできる。3重跳びは達人クラスなら何度か見たことがあった。しかし、ちょっと調べてみると、もう6重跳びを成功させた人もいるが、6重跳びを連続というのが難しいらしい。しかし、6重跳びを2回連続というのが今の世界トップレベルらしい。そして、今や7重跳びにチャレンジしている人がいる。どうしたら7重跳びができるのか。これもまた未知の世界である。哲学もスポーツも同じ。どうしたら・・・・できるようになるのか。そこに真摯に向き合う姿勢。
そのひたむきさが社会をよくしていくと思う。そこに謙虚さが必要となってくる。「ありがとう、すみません、お願いします。」という言葉。
 私はスケートも縄跳びもできない。しかし、市井の哲学者となることが、年を重ねる度に、私の軸になっているように思う。どうしたら、誰も平和な社会が気付けるようになるのか。今は謙虚に相手の声に耳を傾けることというところまでしかわからない。その実践の中でまた何かを見つけていくだろう。
 今年はイスラム国の問題で世界は恐怖に陥れられた。私にそれを解決することはできないのだろうか。いや挑戦したいのである。全て哲学ありき。それがどの言葉をかければ、世界が平和になれるのか。哲学は経済、政治、教育、福祉と全てにその方向を位置づけてくれる。だから、今必要なのは遠回りのように見えるけれども哲学なのだ。目の前の修復をしながら、土台を固めていかなければならないのだ。私は可能だと思っている。ものすごい挑戦だと思っているが、志はこれくらい大きくないと。国籍は違っても同じ人間なんだということ。
小さな受付の窓から闇を見つめながら、いろんな問いかけをずっとしていきたいと思う。警備員になって足掛け3年。大晦日の年明けは3年連続1人の警備室で過ごす。かすかに聞こえてくる除夜の鐘に逝く年の感謝と、来る年の希望を祈りたい。
 これが今年最後のブログになると思います。このブログを読んでいただきありがとうございます。来年も皆様に多くの幸せが訪れますように心から祈っています。よい、お年を!
「資格に向けて 警備の資格の勉強がちょっとリズムに乗ってきたので、長い目で10年くらいかけて新しい資格を勉強しようかと思っている。気象予報士。ちょっとこれ面白そうかな。しかし、まずは今年の資格試験に向けて集中だ。問題集と参考書の読み込みをしました。」

「致知」11月号より。
「問題が起きたことは問題ではないのです。それにどう対処するか。それによって皆さんの仕事も人生も変わっていくのです。」(日本を美しくする会 相談役 鍵山 秀三郎氏の言葉)

「努力は幸せにあるための手段ではない。努力そのものが幸せを与えてくれるのです。」(ロシアの文学作家 トルストイの言葉)
[ 2015/12/30 16:17 ] 未分類 | TB(0) | CM(9)

一人が抱える重さがドンドン増えていっています。それを感じていますか。感じなければ、どんな数字からでもいいから想像しておきましょう。それが自分の未来を守ることになると思っています。

 まず、ブログが中々更新できなかった言い訳からです。この10日間は仕事が大変だったということです。原因は他のスタッフの用事や体調不良があり、シフトが組めなくなったので、無理に押し込んだために、ちょっとハードなシフトになったということと、その合間の休みも地域の役員会の改選や義理が絡んでの講演会への出席などで、休みが休みでなくなってしまったということ。全て、予定されていた多忙さなのですが、ブログは更新できるかと思っていたのですが、ちょっと甘かったです。そのために、とにかく休んでいる間は何もしない、寝ることに徹しました。なんとかと峠を越えて、普通のシフトに戻ったのでヤレヤレという感じです。予告もなく休んですみませんでした。
 そして、その中で感じたこと。一人休むとこれだけ負担が増えるんだなあ。誰かが支えないと社会が動いていかないんだなあ。それを連想するものに「これから高齢化社会を迎えるに当たって、このままではドンドン増えていくばかりである。」ということ。違った言い方をするならば、その若者達が高齢に成った時に支える人がさらにいなくなる。支えるとは年金額が減っていくこともあるが、施設に入ってもその施設がないとか、そこに働く人がいないということだろう。それが一気にくれば危機感実感できるのだが、ジワジワと来ているから感覚もないし、想像力も働かない。想像力が働いてもその不安は募るばかりで、解決策が浮かばない。
 しかし、私は解決の一助とならないかもしれないが、一つの提案をしてみようと思う。不安に思うことをできるだけ想像しておくことである。できたら、箇条書きにしておくとさらに自分は何に不安を感じているのかが明確になる。そして、そこで未来の法則を当てはめる。「未来には想定外のことしか起きない。」という法則。これがものすごく自分の中でウケている。
と、いうのもちょうど一昨日も職場で予想外の事が起きた。まだ解決していないので、起きていると言った方がいのかもしれない。そして、その事で今後どうなっていくのかスタッフといろいろと想像して話した。最悪の場合どうなるか。考え過ぎと言われるほどいろんな場合を考えた。好転する場合も考えた。しかし、その4時間後、誰も想像もしない方向に進んでいった。考えてみれば、それが妥当だったとは思うのだが、その方向性は誰も見つけられなかった。そして、一安心したものもつかの間、その翌日、つまり昨日、とんでもない方向、それも最悪とかとはかではなく、とんでもない方向に展開していったのだ。それがどこに収まるのか誰も知らないが、明日職場に行ってからの話となる。その内容はともかくも言いたいのは、誰も予想することはできないのだということ。そして、それは時間を待たずして、さらにびっくりする方向に進んでしまった。全く予想すら出来ない結果です。ロケット花火の起動のようでどこに飛んでいくのかわからないです。しかし、あとからよくよく考えると落ち着くところに落ち着くものなのだ。ロケット花火の着火点が、火薬庫なのか海の上なのか草むらなのか。落ちる場所でその後の対策が変わるということなのだ。しかし、どこに落ちるかの予想だけはできるだけしておくことが大事であると。
とどのつまり、人生、自分の思ったようにはいかないという話にもなる。宝くじが当たるかもしれないと考えているから、当たらないということにもなる。当たったとしてもそれは自分の想定外の金額ということになる。10億円当たればいいなあと思っているならば、当たったとしたらそれ以上であるということ。もしくは宝くじではなくそれ以外の方法でそのお金を手にするかもしれないということ。年末ということもあって、宝くじを私はかなり意識しているのでしょうか。買ってもいないのに、自分は結構金の亡者だなあと。お金では幸せは買えないと言っているのに、結構お金に執着しているのかと。そんなつもりはないけどなあ。
またまた、話題の軌道修正。一人減の負担が大変になってくる。やはり、大事になってくるのは政策的にも今からの意識変革だろうと思う。日本は人口減といっているけれども、地球規模では人口増になっているということ。中国の一人っ子政策が、これでは国の生産力が下がるということがわかったので軌道修正されたが、これはちょっと中国のこれからを考えると大ブレーキになってくると思う。今は影響がないが、50年くらい先にはちょっと陰りが見えるのではないか。地球規模的に人口を均すということに対しての意識を変えていくのが、お互いのためということになるだろう。そこにはいろんな壁があるが、今その壁を取り除いているのが、インターネットということになるだろう。海外からの情報がリアルタイムで流入し、日本の情報がドンドン世界に広まっていく。まだまだ、ネットが使える地域は限られているが、それが広がっていくのは想像できる。
私が必ず見ている番組がある。「グッと地球便」といって海外に自分の新天地を求めて出て行った日本人の活躍を取材している番組である。日本よりもその地の方が自分の水に合っていると。私も環境が許すなら飛び出していきたくなる。時代だなあと思う。私が今20代なら絶対に行っていたと思う。今はここで自分の花を咲かせることに意味を見出してしまったので、私の花はここで咲かそうと思っているが。時代がドンドンとジワジワと変わる意識の中で変わっているなあと感じているのである。
一人の負担。たかが一人、されど一人である。100人の中の1人は1%だが、2人の中一人は50%である。同じ一人でも1%と50%。50倍の負担である。今まで1kgしか持っていなかったが、50kg持つことの辛さ。そこを想像して今から意識を変えていかないといけない。自分ひとりでは社会は何も変わらないけれども、みんなで支えてこそ豊かな社会である。仲良くしてこそ、豊かな社会である。一人は一人。人の力を借りなければ、本当に生きていけなくなる社会がもうそこに来ている。一人で歩いているから、車を運転できるから、今日は誰とも話さなくても生きていけたからとか、そんなことは今だけ、本当に今だけ。ある日、足が動かなくなり、車が運転できなくなり、何一つ自分でできなくなる時が必ずくる。そのために今何をしておかなければならないかを、自分の心の持ち方を見つめておく必要があるように思う。

「資格に向けて ということで、会社ではとにかく睡魔が襲われっ放しの10日間でした。十分なことはできなかったです。猛省です。」

「致知」11月号より。
「要は心ですよね。相手の心の分かる温かさ。人徳で一番大切なのは何かと言ったら、自己満足じゃなくて他己満足。周囲の人をいかに満足させるか。喜ばせるかです。私は地位欲や金欲は全然ないですし、永遠に黒子でありたいと思っています。例えば、『これ哲郎がやったんだよね。』ということを住民に意識させたらお終いです。高齢者から子供達までいかに一人ひとりの出番をエデュース(educe)引き出すか。それがリーダーの役割です。」(人口300人の田舎の小さな村に年間5000人以上が訪れる鹿児島県鹿屋市串良町柳谷集落自治公民館長 豊重 哲郎氏の言葉)

「人の嫌がることを率先してやることで、自我を克服しようとしたんです。」(台湾元総統 李 登輝氏の言葉)
[ 2015/12/26 05:52 ] 未分類 | TB(0) | CM(11)

逆でしょ。私の大切な困った時に使う切り札の言葉。グッーと力をためて、膝をまげて、腰を曲げて。そして、一気に飛び上がろう。相手よりさらに飛び上がろう。雲より高く、自由になろう。

 「今でしょ。」という言葉が流行った。いやまだこれ流行っていると思う。その言葉の第二弾として流行るか流行らないかはさておき、私はそれを捩ってある台詞をよく使う。それも心の中で。「逆でしょ。」という言葉である。これを何回も使うと「あいつはひねくれ物だ。」「何を言っても素直にとらない。」という風になることがあるのではないかと思われるので、人前ではあまり使わない。
 自問する時、行き詰った時、自分を否定してみる。今までの考え方が間違っていたのではないかと検証する。自分を否定するのではない。どこで間違えたのか。そこに立ち戻らないとゴールにはいけない。行き止まりは行き止まり。「あの時間違った分岐点」まで戻らないと。そこでごめんなさいと謝らないと前には進めない。
 しかし、それは自分の問題なので、まだなんとかやり直しが効く。しかし、人から責められる時に、伝え方が悪かったにしろ、相手の理解の仕方が間違っていたり、理由も聞かずに責められることがある。どこか違う、何か違うと感覚の中で、そっとつぶやく。「それ逆でしょ。」私は悪気もなければ、善意でやったのに。ただ知らなかっただけなのに。その無知の部分は勉強不足と責められて仕方ないにしても、あなたは悪意でやったというところまで責められる。もうこうなったら逆襲だ。その分岐点になった誤解のキーワードを怒涛の闘いの中で、心を静めて探し続ける。そして、こちらの言い分を聞いてくれないようなら、黙るしかないね。この人は可哀相な人だと。
 この「逆でしょ。」は結構自分を守るのに役に立つ。自分を守るためにもそうだけれど、相手の素晴らしい部分にも気がつくときもあるし、最後は自分の驕りがどこかにあったのだと鞘に収めることもできる。その論理の展開のきっかけの言葉になる。
 話はまた逸れますが、「しかし、でも」という言葉。これは論理を組み立てていく上でものすごく面白い。心の成長段階のバロメーターにもなっているそうだ。小学校の作文に「○○しました。そして、○○しました。そして、○○しました。」と、延々とそして、そして、で書いていく作文をよく見る。そこにある時、「しかし、でも」が入る。これはある人によると小学4年生くらいらしい。例えば「朝から雨が降っていました。でも・・・。」この後に逆説の接続詞を使うことで、違った面を見る能力が出てきているということらしい。この発想は面白いのでいろんな場面で使ってみてください。
 さらに話は逸れます。逆といえば、ガリレオ。「それでも地球は回っている。」コペルニクスが太陽系はそれまで宗教的な観点からなのだろうか、地球の周りを太陽が回っていたという天動説だった。しかし、実際は地動説。惑星の動きを見て立証したらしい。科学的な面から考えるといろんな矛盾が出てきたのだ。この事実を発見した時、どんな気持ちだったろうか。感動に全身が震えたのではないかと思う。どちらにしても、明日また太陽は昇ってくるのだけれど、これを世間に知らしめることは当時としては死罪覚悟だったのだ。このコペルニクス的転換。今までのことが逆だったと気付く。そして、現在の宇宙開発に繋がっているのだ。
 話はさらに逸れていきます。一生懸命、働けど、働けどわが暮らし楽にならず。これ、おかしくない。むしろ逆でしょ。真面目に働いてきたのに、最後は老老介護で疲れて、悲惨な最後となる事件がここのところよくニュースになる。これから多死社会を迎えるに当たって、この問題は大きくなるばかりだろう。
 ちょっと前向きに方向を変えます。どこが違うの。どこで道を間違えたの。産業が後戻りすることはできない。経済ももっともっと豊かになればいいと思う。時間も戻らない。でも、逆でしょ。日本はこの道を本当に進んでいっていいの。この先には崖しかないじゃないの。テレビの話。正誤問題で正解の方向にトロッコが進んでいって、途中で間違うと奈落の底に落ちていく「ネプチューン」が進行役のクイズ番組がある。あれに似ている。このまま進んでいっていいの。逆でしょ。あの分岐点には戻れなくても、これから先の分岐点でこんどこそ間違えないようにしないと。今の考え方でいいの。
 昨日、地域おこしの集まりがあった。地域の奥まったところの公園をどう観光に活かしていくかということがテーマだった。私の意見、「電波が届きにくいから、携帯電話やパソコンが使えない癒しの宿はどうか。」と提案した。圏外を逆手に取った発想である。ものには長短あって、いい面もあれば、悪い面もある。その共存である。それを認め合っていく社会。全てのものに価値があるという社会。そこに差別はない。ある一方方向にだけ進む社会、貧富の差は無いにこしたことはないが、全くない個性のない社会は面白くもないし、むしろ怖い。今、困っていたら、大きく心の中で叫ぼう。それ、逆でしょ。自分の意識に向かって。明日も私らしく楽しく有難く一日を過ごさせてもらおうと思う。

「資格に向けて 会社で研修会がありました。少ししか時間がなかったですが、少しでもわかったのでそれでよし。」

「致知」11月号より。
「リーダーは勇気と執念、アイデアとポリシーを持っていなければならない。言ったことは即実践、自らの汗、行動以外何物もない。」「反目者のような近づき難い人にもこちらから歩み寄っていく。何か改革を進めるとき、いくら論理的に説得しようとしても人の心はなかなか動きません。自ら使われ役となり、率先して汗を流して鼓動すること。その本気さ、情熱が周囲を変えるだけの力になるんです。リーダーはいかに人を本気にあせるか。これしかありません。」(人口約300人の田舎の小さな村に年間30カ国、5000人以上の視察者が訪れる。鹿児島県鹿屋市串良町柳谷集落自治公民館長 豊重 哲郎氏の言葉)
[ 2015/12/16 05:36 ] 未分類 | TB(0) | CM(6)
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